虎になれない

やってきました毎週恒例、自分の人生を恥じるコーナー!今週のテーマは「信用」です!

みなさん、信頼してますか~~~~~~~~~~~~~~~????!?!?!?!?!?!?!?!?!?

 

 

さて、ね。なんというか、別にいじめられたから私の人生が上手くいかないんだとか、性格がひねくれたとか言うつもりはないんです。もちろん一般に、いじめという行為によって人生がねじ曲がってしまうことや場合によっては命を自ら絶ってしまうことはあって、決して許される行為ではないということは書き添えておきます。

ただ、そういったいじめと比べて私が小学校終盤~中学に受けていた行為はまあ軽度でしたし、どちらかというと不良グループに目を付けられる程度のものでした。が、埼玉のとあるベッドタウンに生きていた当時の私にとっては家と学校と部活のコミュニティが人間関係の全てでしたから、不良グループに目を付けられるというのは人生の三分の一を怯えて過ごすのと同義だったわけです。

運の悪いことに、捻じ曲がる前の私の心は自分で言うのも何ですが相当に純真無垢でした。純白のTシャツにタバコを押し付けられて出来た焦げは今でも心の中でくすぶって消えてくれないのです。*1前もって自分でカレーうどんを跳ねさせたり、泥遊びに興じていればここまでのショックは受けなかったのでしょうが、当時の私はまた、今の自分よりは随分とましとはいえ内気な人間だったのです。

そしてまた、幸か不幸か私は勉強がそれなりにできました。”郷党の鬼才” と呼ばれるほどに抜群にできたわけではありませんが、人の助けを借りずとも、それほど勉強に時間をかけることもなく、200人の学年で4番か5番くらいにはなれたのです。しかし一方で、人に教えを請うて1番になろうとはしなかったのです。この心理は八十年前の名著が ”臆病な自尊心と尊大な羞恥心” と見事に言語化してくれているので、いたずらに言葉を弄して長大な説明を書き連ねるのはやめておきます。

かくして、純真で内気な少年は、その身に受けた焦げ跡を自尊心と羞恥心で飼い太らせ、人を信用しない大人になってしまいました。そしてこの "他者への無信用" には重大な副作用がありました。「自分は他人を信用していないのだから、他人も自分を信用しないでほしい」という思考です。他人の信用を裏切るのが怖いのです。どうせいつか裏切ってしまうのだから信用しないでほしいのです。信用されないために、信用しない、信用しないために、信用されない、殻に閉じこもる私には、この殻が自分の生み出したものなのか、それとも殻が自分を作っているのか、もはや到底分かりそうもありません。

いっそどうでもよくなって獣になれたらどんなに楽でしょう。卵の中にいる私は虎にはなれないのでしょうが。

*1:これは比喩で、実際タバコを押し付けられたことどころか、件の不良グループがタバコを吸っているところすら見たことがありませんでした。