好きな曲を書きたい

人に何かをオススメするのって苦手なんです。単に文章力が無いというのもそうですが、オススメしたものが人にハマらないと自分を否定された感じがして普通に嫌じゃないですか?(一応書いておきますけど、もし私がリアルで何か勧めてハマらなかったとしても別にそのまま伝えて大丈夫です。むしろその方がお互い気を遣ったりしなくて良いので) それに人にオススメするってねえ………?あれやん………恥ずいやん……?

 

でも私が好きなものを伝えたい…もっと良さが広まってほしい…こんなブログをわざわざ見に来る人はマナーの良い人だろうからむやみやたらに広まったりしなさそうだから………ということで、好きな曲を紹介したいと思います。文章が下手だし長文を書くと後半ダレるので一、二行だけここすきポイントを添えたいと思います。

 なんとなくジャンルなんかもふわっと書きますが詳しくないので間違ってても多めに見てくださいなんでも

 

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何にでも意味を見出さなくてもいいんだよ

不条理で非規則性な美しさというものがあります。

 

芸術に関しては疎いので突っ込んだ話はしませんが、例えば絵画ではJackson Pollockによるアクションペインティングと呼ばれる、キャンバスに絵の具を滴らせて(というよりはぶち撒いたような)描く手法があります。ランダム的で、意図の介在しないような表現が、かえってありのままの姿というものを表現しているようにも思えます。

ところが、これに完全に意図が存在しないかというと恐らくそうではなく、例えば色を選ぶのはおそらく描き手であるし、絵の具を滴らせる刷毛の動きは描き手によって操作されるものです。それがダメかというと、別にそういうわけではなく、恐らく私を含めた大多数の人にとっては、完全な無秩序に美を見出すことは難しいものなのでしょう。芸術とはそもそも人が作り上げるものであるから、介在する人間の意識とそこから独立したランダム性の双方が相互に作用することで、”無秩序的な芸術”という一見矛盾しているようなコンセプトが存在しうるのではないでしょうか。

もう少し分かりやすい例を出すと、印象派の絵画があります。写実的な細かいタッチとは対照的に、粗く、明確な線の無い、まさに「印象」を写し取ったような絵は、かえって光の動きやその場の空気を捉えていると評されます。これもまた、秩序的な物体の形を分解し、光の揺らめきを捉えるためにランダム的な筆致が用いられます。こちらはより人間の意識に寄った作品ですが、そこにランダム性が付与されることで新たな広がりが加わったのです。

 

さて、ここまでは前置きで、ここからが本当に話したかったことです。これまで絵画について書きましたが、音楽ではどうでしょうか?

音楽はリズム、メロディ、そして無い場合もありますが歌詞、この三つが構成要素であると考えられます(ノイズミュージックのような例外はありますが)。この要素に対して非秩序性を加えたような音楽というのも、当然ながら存在します。

たとえば私の好きな曲に”./全てあなたの所為です。”があります(youtubeに本家の動画あります)。この曲は中毒性の高いメロディと、非論理的な歌詞とが合わさり、夢の中のような、秩序と非秩序の境目のような心地のよさを私は感じます。

ところでこういった、不思議な歌詞の曲に対して歌詞の意味を考える、いわゆる考察をするのが好きな人がいます。もちろんそういった行為は別に不思議なことではないです。不安を解消しようとする心の動きと思えば自然ですし、梶井基次郎の”桜の樹の下には”では、桜の美しさを下に屍体が埋まっているからなのだと述べています。ほとんど無条件に感じるであろう桜の美しさに不条理を感じ、それが見るに堪えないような屍の上に立脚しているのだと、いわば普通の人が行う考察の反対のような思考が名作たる所以なのだと思いますが(桜の樹の下にはは短編でさくっと読めますし青空文庫にあるので読んだことのない人は読んでみるとよいと思います。)、そのように物に理由を考えてしまうのが、ある意味ではヒトらしい行動なのかもしれません。

しかしながら、桜の樹に対して無条件に抱いている美しさという非合理に対しては、多くの人は考察をしません。何故でしょうか?

それは恐らく、その非合理を非合理と受け入れることに慣れているからです。(あるいは非合理に気が付いていないだけかもしれませんが。)そしておそらくは、多くの人は桜の樹の美しさについてもひとしきり考えた後、美しいと思うものは美しいのだと受け入れるのではないでしょうか。

非合理を受け入れる素養はどんな人にもあるのです。皆様も良き非合理ライフを。

アニメと大学日記

文を書いては消し、文を書いては消し…そのうち書く文章がどんどん感傷的になってきたので一転して普通のことについて書くことにしました。お酒を飲むとどうにも感傷的になってだめですね。

 

・夏アニメと秋アニメ

秋アニメがなんか気が付いたら始まってましたね。夏アニメはいい作品が多かったので今期も楽しみです。とはいえ、今期はなんだかんだ”風が強く吹いている”しか継続して見ていないんですけど(私を知ってる人なら驚きそう)。感想を言えるような教養もないですが思ったことを書きたいので書きます。

 

風が強く吹いている

原作が好きすぎるので少し不安もあったのですが今のところかなりいい感じに映像化されています。ところどころある改変も自然で良いですね。原作の走はかなりあっさり篭絡…というか原作の方が素直なので、アニメのツンツンしてて何かを極めし者特有の社会不適合者な感じが出ている走はなんというかリアルだなと思いました。

年始の駅伝に合わせて秋アニメなのかなと思ったらどうやら2クールだそうで。放送半ばにあった方が盛り上がっていいのかな。

 

でまあ、”やがて君になる”見てないの??とか言われそうなんですけど、一話を見てなんか違うなと思ってしまったんですよね。

いや、作画も音楽も声も素晴らしくて丁寧にアニメ化されているなとは思いましたし、多分良い作品になるだろうなとは思ったんですけど、二話以降を見ていないのは多分なんというか原作が好きすぎるせいだと思います。原作の雰囲気というかなんというか自分で言語化できていないのですが、それが好きなので、ちょっと違うなと思ってしまったんだと思います。多分。

 

・大学

必要単位もほぼほぼ取り終わって、今期は楽にしようと研究室配属で使う(可能性がある)ギリギリまで受講科目を絞ったら明らかに楽すぎて笑ってます。前期は午前に7コマで今期は午前に3コマですからね。午後は全部実験なんですけど。

しかもレポートのでる講義が少なくて家に帰るとTOEICと実験レポートしかやることが無いのも暇といえば暇です。暇なのはいいんですけど、何か目標を持っていないと堕落して化学の知識がどんどんボロボロになっていくので何かやろうとは思っています。まずは11月のTOEICが終わったらかな。

大学院には行きたいと思っているのでそうすると来年の夏は院試なわけですが、ネットにある院試の過去問をチラッと見てみると、無機化学とか生物化学はともかく、物理化学と有機化学はヤバいのではないかと思っているので堕落回避を兼ねて化学熱力学・量子化学あたりはやりたいななんてなんとなく思っています。要するにアトキンス。講義自体も量子化学は付け焼刃の知識で乗り切ったものの、物理化学(熱力学)は途中からついて行けなくなり、試験は山を張ったら見事に外し撃沈した科目なのでリベンジしたいですね。卒業・院進するのに学部の内容を分かっていないっていうのもダサいですし。

というわけでなんとなくのモチベーションがあるのですが、目下の問題はTOEICです。これも院試に使うのですが、今までに一回しか受けたことが無く(しかも公開試験じゃない)、自分の実力がどの辺なのかもいまいち分からず、さらには今やってる勉強が効果があるのかも分からず、何点取ればいいのかも分からない。もう何もかもが分かりません。とりあえず取れるだけ取れっていうことですかね。

なんというか、早くこの不毛な不安から逃れたいです。

果たして私は、いつまで情熱を持って生きられるのだろう

みなさん、情熱を持って生きていますか?

 

別に何も、将来○○をやりたい!とかそういう情熱じゃなくてもいいんです。「○○っていうマンガが面白すぎるので完結するまで死ねない!」とか、「どこどこに旅行に行きたい!そのために節約してます!」とか、そんな程度の情熱でいいんです。そんな情熱があなたにはありますか?そして来年のあなたは同じ情熱を抱いたままでいられますか?

私にも大なり小なり情熱があります。たとえば「日常系のマンガを読んでるだけで幸せ。次も読みたい」とか、「化学とかいう学問に理由はよく分からないけど取りつかれてるのでなんとか化学で名を立てて化学で食っていきたい」とかそんな情熱があるにはあるのです。

そんな情熱…あるいは夢というべきか、それは人の人たる原動力に他ならないと私は思うのです。情熱の大部分は本来生きるのに必要のないものです。ただ生物として生き残るのなら旅行に行くことも、マンガやアニメを見ることも、仕事をすることも、(現代社会で生き残るために必要かどうかは別にして)必要ないはずです。

 

そんな情熱をいつか失う日が来るのではないか、それが怖くて怖くてたまらないのです。

 

あなたにもきっと経験があると思います。当時はあんなにハマっていたのに今ではまるで琴線に触れない。そんなものがたいていの人にはひとつやふたつはあるのではないでしょうか。その多くがきっと、何か別の情熱に代替されて自然と失ったものであると思いますが、時には別のものに代替されることなく消えてしまう情熱というものもあるはずです。もしもこの身に宿る情熱が全て移り変わることなく消えてしまったら…そんな未来が来るのではないかと考えるのは決して不自然ではないのではないでしょうか。

いや、情熱が消えることが怖いのももちろんですが、それ以上に今の自分が失われるのが怖いのです。日常系のマンガが好きな自分が失われたとして…いま家の中にあるマンガ300冊余りは一体なんだったのでしょうか?それで得た幸福、歓喜、感嘆…その全てが失われるのが、自らの手で(それも惜しむことなく!)失うのが怖いのです。その全てを忘却の彼方に押しやって、マンガを古本屋に売りに行く、未来に存在しうるかもしれない自分自身に底知れぬ恐怖を感じるのです。

 

「青春とは無意味である」と、(私が勝手に)昔から言います。部活動も、放課後の教室での駄弁りも、極論すれば無意味なものです。大人と子供の境界線で、自由と不自由の狭間で、自分自身の情熱に向かって若い力その全てを擲つ、それこそが青春だと(私が勝手に)言います。その青春を捨て去るその日が来ることが、たまらなく怖いのです。

 

自転車旅に関する極めて個人的な感想

わたしは旅行が好きです。その中で特に、一人で旅をするのが好きです。自分を見つめるとかそういう意識高そうな理由から一人が好きなのではなくて、もともと内向きな性格(ぼっち気質)が災いして、人に気を遣わせるのも人に気を遣うのも好きではないせいです。実際に相手が私に気を遣っていないとしても、気になってしまう私がいるのでどうにも気疲れしてしまう、そういう雰囲気が嫌いなのです。なので本当に気心のしれた相手となら何人旅行でも構わないですけど(人付き合いの活性化エネルギーが高い)。

ところで、一人旅といって浮かんでくるのはバックパッカーであったり、自転車旅行であったりするのではないでしょうか。なんとなくそういったものには私も憧れがあって、今年の夏に自転車旅行の聖地ともいえる北海道に行ってきたのですが、そこで理想との違いに直面しました。

なんというか、(特に?)夏の北海道の自転車旅行って全然孤独じゃないんですよね。最初に走った場所があんまり郊外ではない苫小牧~室蘭だったのも悪かったのかもしれないですが、道であったりキャンプ場であったり、そういうところに結構同じ旅人がいるんですよね。走行中はまあまあ孤独なんですけど。

そもそも一人旅が好きな人には多分二種類がいて、おそらくメジャーな「日頃の関係の外にいる人との交流を楽しむタイプ」と、わたしみたいな「人間関係から解き放たれて知らない世界に行くのが好きなタイプ」とがいると思います。どちらがいいとかそういう話ではなく、別段前者のタイプに対して抱く感情はないのですが、自転車旅行をするような人はほとんどが前者のタイプなんですよね(単に前者しか見えていないだけかもしれないですが)。キャンプ場みたいな狭い空間で二つのタイプの人が同居すると、後者はただただ肩身の狭い思いをするだけになってしまいます。断じて前者はもっと後者に気遣え!みたいな話ではないですよ。

後者みたいなタイプの人が孤独に旅行したいのなら、バスや鉄道のような公共性の高い移動機関を使って、ビジネスホテルやネットカフェみたいな事務的な宿泊施設に泊まる、これこそが最も孤独で(幸福な)旅行となるわけです。

これから私が自転車旅をすることはないでしょう。自転車自体は好きだし、漕ぐのも軽いし、各種パーツの調整や交換もちょっとした機械いじりみたいで楽しいですしこれからも通学のお供として付き合うとは思いますが、話しかけられたくないので遠乗りすることはないと思います。雑踏に紛れて、孤独に、ここではないどこかへ向かうのに気を遣う必要はないのではないかと、気が付いてしまったのです。

ところで一応フォローしておきますけど、夏の北海道は普通にいくなら涼しいし食べ物はおいしいしウイスキーもおいしいし最高なのでみんな行きましょう。来年もいけたらいいですね。

 

時間のみが解決できる問題への焦燥

なにもすることがないのでキーボードに向かっています。

いや、何もすることが無いというのは嘘です。実験のレポートやらTOEICやらとやることはあるのです。なぜそれをしないかというと、時間しか解決してくれない懸念の、なんともいいがたい重圧に押しつぶされそうだからなのです。私の場合は翌年3月に迫る研究室配属がそれなのですが、あるいは、同様なことは合格発表、人間関係、ソーシャルサービスのメンテナンス待ち時間…いろいろなことに言えるでしょうか。

時間に対して人は無力です。いや、人に限らず物質、空間、この世界の全てが、少なくとも今は、一方に向かってとどまることなく怒涛に流れ流れゆく時間の上に揺蕩うことしかできないのではないでしょうか。

眠れない午前3時、ふと気まぐれに時間とは何かと思案したことがあります。どこかで読んだ話ですが、何か物体が移動するのを観測することで、時間の存在を認知することができたのなら、厳密になんの変化も起こらない空間に対して時間を定義することができるのか?のような話があるそうです。思い出して書いただけなのでこの話は全然本題に関係ないです。

ともかく、時間というのは絶え間なく一方向へとむかっていて、というよりは本当は現在のみが存在していて、観測が過去を生み出している…そう表現した方が正しいのかもしれないですが、確定的な未来というのは、少なくとも今現在は存在しないわけです。

足りないものを手に入れたくなるのが人間の性というか、安定的な、予測可能な未来を求める心は現在の自分を押しつぶす力をもっている恐ろしい存在です。現に自分はふわふわとした頭で吹奏楽曲を聴きながら(あまり更新されない)研究室のホームページを眺めるだけの存在になってしまうのです。恐ろしいねぇ(VB