桜の樹の下にはコミュ障たちの屍体が埋まっている!

桜の樹の下にはコミュ障たちの屍体が埋まっている!

 

これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。私はあの美しさをただただ無条件に受け入れていた。しかしいま、やっとわかる時が来た。桜の樹の下にはコミュ障の屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。

 

どうして私が毎春、世の中に数ある道楽の中でよりによってちっぽけな薄っぺらいもの、Twitterなんぞを、苦しそうにやっているのか―おまえはそれがわからないと言ったが―そして私にもやはりそれがわからないのだが―それもこれもやっぱり同じようなことに違いない。

 

いったいどんな樹の花でも、いわゆる真っ盛りという状態に達すると、あたりの空気の中へ一種神秘な雰囲気をまき散らすものだ。それはよく廻った独楽が完全な静止に澄むように、また、音楽の上手な演奏がきまってなにかの幻覚を伴うように、灼熱した生殖の幻覚させる後光のようなものだ。それはいまいましくもいみじくも、私の心を打たずにはおかない、不思議な、生き生きとした、美しさだ。

しかし、ある春のある時、私の心をひどく陰気にしたものもそれなのだ。私にはその美しさがなにか信じられないようなもののような気がした。私は反対に不安になり、憂鬱になり、空虚な気持ちになった。しかし、私はいまやっとわかった。

おまえ、この爛漫と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つコミュ障が埋まっていると想像してみるがいい。何が私をそんなに不安にしていたかがおまえには納得がいくだろう。

寡黙なもの、人との距離感が上手く掴めないもの、そして人間のようなもの、春にコミュ障はみな腐心して何かと関係を築こうとして、たまらなく疲労している。それで水晶のような涙を心にたらたらと垂らしている。桜の根は貪婪な蛸のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくのような食糸のような毛根を集めて、その液体を吸っている。

何があんな花弁を作り、何があんな蕊を作っているのか、私は毛根の吸い上げる水晶のような液が静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ。

―おまえは何をそう苦しそうな顔をしているのだ。美しい透視術じゃないか。私はいまようやく瞳を据えて桜の花が見られるようになったのだ。あの春のあの時、私を不安がらせた神秘は昇華されたのだ。

あの春、家を出て、学校の中をひた歩きしていた。光のしぶきのなかからは、あちらからもこちらからも人の群れが生まれてきて、そぞろ歩くのが見えた。お前も知っているとおり、彼らはそこで美しい交遊をするのだ。何とか私も輪へと横入りしながらも過ごしていると、私は変なものに出くわした。それは春の風が乾いた巷へ、小さい水溜を残している、その人の輪の中だった。おまえはそれを何だったと思う。それは何万匹とも数の知れない、交遊の屍体だったのだ。隙間なく人の心を被っている、私の、彼らの意味を失った交遊が、光にちぢれて油のような光彩を流しているのだ。そこが外面の墓場だったのだ。

私はそれを見たとき、胸が衝かれるような気がした。自身を取り繕って交遊を嗜むコミュ障の自覚を味わった。

この体裁にはなにも私をよろこばすものはない。LINEもTwitterも、数字を左肩に煙らせて液晶に浮かぶ四角も、ただそれだけでは、もうろうとした心象に過ぎない。私には孤独が必要なんだ。その平衡があって、はじめて私の心象は明確になってくる。私の心は悪鬼のように交遊に渇いているが、私の心に孤独が完成するときにばかり、私の心は和んでくる。

―おまえは辛い顔をしているね。孤独なのか。それは私も同じことだ。何もそれを不愉快がることはない。愛想とごく僅かの交遊、それで私たちの外面は完成するのだ。

ああ、桜の樹の下には私が埋まっている!

いったいどこから浮かんできた空想かさっぱり見当のつかない屍体が、いまではまるで桜の樹と一つになって、どんなに頭を振っても離れてゆこうとはしない。

今こそ私は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている人たちを眺め、地へと呑まれることができる気がする。

陽光の下の桜の樹の下で、その根に抱かれて眠ることができる気がする。