ものをお勧めするという行為

弊学の某のおかげで胃がキリキリしてなんとなく何かをしていないと落ち着かないので文章を書きます。胃が痛むのは空腹でコーヒーを飲んだからな気もするけれど。

 

何かものを人に勧めることに対する苦手意識が抜けないんです。そもそも自分の感情というものを言語化できない、というかむしろ感情を具体化するのを意識的に避けているというのもあるんですが、その他にも自分のお勧めを否定されるのが怖いんですよね。それに人のお勧めを理解できないのも怖いです。

自身の感性を否定されるのが怖いという訳ではないです。感性が人それぞれだというのは流石に理解しているつもりなので、別にハマらなかろうが「あなたには合わなかったんだね…ちょっと残念だけど仕方ないね」で納得できるんです。それよりも、私がそれを勧めたことによってあなたが時間を無駄にした(のではないか)ということが怖いのです。受け手側からすると、作品にハマらなかった時って”この作品・ジャンルには適性がないことが分かった”(肯定的)と”ツマらん作品を見て時間を無駄にした”(否定的)の二通りの感想があるわけですけど、当然ながらどっちなのかなんて言わないわけじゃないですか。特に後者みたいな友情崩壊の呪文なんてよっぽどじゃない限り言わないわけです。時間をドブに投げ捨てることがネタとして昇華されるようなよっぽどなB級映画なんかを観たときじゃないと。話を戻して、肯定的な意見だったにしろ、好きでもないものを見る時間を過ごさせてしまうことにとてつもない申し訳なさを感じてしまうわけです。

逆に自分が人のお勧めを理解できなかった時は、感性を否定しているように取られてしまったのではないかと不安になるのです。自分にそんな意図は全くないと自信をもっていえるのですが、それで「いや、あなたの感性を否定したい訳では断じてなくて…」みたいな語り口で否定するのもおかしいですよね?事実なのに口に出すとどうにも嘘っぽくなってしまうのです。単純に人の好きなものを否定するということだけでも心苦しいのに。

 

結局の所、この心苦しさというのはたぶん他人に干渉していることから起こっているのだと思うのです。自分の感情にさえ責任を持てないのに他人の意思にまで責任を持てるかってもんですよ。なので私は何かを勧めたいときに「○○はいいよ」とは言わずに「○○がすき」とだけ言うように心がけています。”好き”ならば自分の感情を述べているだけだし、それを見て触れてみようとするのはその人の自由意思になるわけです。要するにステマです。作品名だしてるしダイマか。でもな~~~~~~~~~~~~好きな作品に出会ったときってテンションあがって「各位は買おうね」みたいに言っちゃうんですよね~~~~~~~~~~~~~~~~~~~布教自体押しつけがましさの塊みたいなもんだししょうがないよね~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~