何にでも意味を見出さなくてもいいんだよ

不条理で非規則性な美しさというものがあります。

 

芸術に関しては疎いので突っ込んだ話はしませんが、例えば絵画ではJackson Pollockによるアクションペインティングと呼ばれる、キャンバスに絵の具を滴らせて(というよりはぶち撒いたような)描く手法があります。ランダム的で、意図の介在しないような表現が、かえってありのままの姿というものを表現しているようにも思えます。

ところが、これに完全に意図が存在しないかというと恐らくそうではなく、例えば色を選ぶのはおそらく描き手であるし、絵の具を滴らせる刷毛の動きは描き手によって操作されるものです。それがダメかというと、別にそういうわけではなく、恐らく私を含めた大多数の人にとっては、完全な無秩序に美を見出すことは難しいものなのでしょう。芸術とはそもそも人が作り上げるものであるから、介在する人間の意識とそこから独立したランダム性の双方が相互に作用することで、”無秩序的な芸術”という一見矛盾しているようなコンセプトが存在しうるのではないでしょうか。

もう少し分かりやすい例を出すと、印象派の絵画があります。写実的な細かいタッチとは対照的に、粗く、明確な線の無い、まさに「印象」を写し取ったような絵は、かえって光の動きやその場の空気を捉えていると評されます。これもまた、秩序的な物体の形を分解し、光の揺らめきを捉えるためにランダム的な筆致が用いられます。こちらはより人間の意識に寄った作品ですが、そこにランダム性が付与されることで新たな広がりが加わったのです。

 

さて、ここまでは前置きで、ここからが本当に話したかったことです。これまで絵画について書きましたが、音楽ではどうでしょうか?

音楽はリズム、メロディ、そして無い場合もありますが歌詞、この三つが構成要素であると考えられます(ノイズミュージックのような例外はありますが)。この要素に対して非秩序性を加えたような音楽というのも、当然ながら存在します。

たとえば私の好きな曲に”./全てあなたの所為です。”があります(youtubeに本家の動画あります)。この曲は中毒性の高いメロディと、非論理的な歌詞とが合わさり、夢の中のような、秩序と非秩序の境目のような心地のよさを私は感じます。

ところでこういった、不思議な歌詞の曲に対して歌詞の意味を考える、いわゆる考察をするのが好きな人がいます。もちろんそういった行為は別に不思議なことではないです。不安を解消しようとする心の動きと思えば自然ですし、梶井基次郎の”桜の樹の下には”では、桜の美しさを下に屍体が埋まっているからなのだと述べています。ほとんど無条件に感じるであろう桜の美しさに不条理を感じ、それが見るに堪えないような屍の上に立脚しているのだと、いわば普通の人が行う考察の反対のような思考が名作たる所以なのだと思いますが(桜の樹の下にはは短編でさくっと読めますし青空文庫にあるので読んだことのない人は読んでみるとよいと思います。)、そのように物に理由を考えてしまうのが、ある意味ではヒトらしい行動なのかもしれません。

しかしながら、桜の樹に対して無条件に抱いている美しさという非合理に対しては、多くの人は考察をしません。何故でしょうか?

それは恐らく、その非合理を非合理と受け入れることに慣れているからです。(あるいは非合理に気が付いていないだけかもしれませんが。)そしておそらくは、多くの人は桜の樹の美しさについてもひとしきり考えた後、美しいと思うものは美しいのだと受け入れるのではないでしょうか。

非合理を受け入れる素養はどんな人にもあるのです。皆様も良き非合理ライフを。